酒とワイシャツとわたし

医学生、行動記録、備忘録、メモ、雑記帳

医師になりたかった

お題「わたしの黒歴史」

 

医師になりたかった。

一度は諦めた、というか、逃げた。

先が見えない押しつぶされそうな不安と目先の楽しそうな生活に惹かれて。

 

 

1度目の受験。

センター試験は84%、志望する医学部のバンザイシステムでは厳しい判定。二次試験は自信なし。赤本もまともに解けない。

 

どうせ受かるわけがない、浪人してもともと、という考えが自分にささやき、二次試験当日受験会場から逃げた。

 

どうせ数学は解けないし、面接もめんどくさい。浪人すれば強くてニューゲームだ、逃げてしまえ。

 

1日マクドナルドや街なかの本屋で過ごし、何食わぬ顔で帰宅した。出迎えてくれた母の顔が見れなかった。

 

このときの行動が自分に逃げぐせをもたらした。

今でも当時の自分の行動を後悔し続けている。

 

 

 

浪人生活。

浪人生活は河合塾で過ごした。

学費は当然自分では払えるわけもなく、親が負担。当時代々木ゼミナールからゴールド特待生といった感じの学費無料のお誘いが来ていたのに蹴ってしまっていた。今思えば馬鹿だ。

 

それも河合塾での生活に期待していたためだ。

有名予備校に通えば、環境と1年間という時間があれば、合格まで導いてくれるはずだと。

 

今思えば、環境があるからと言って自ら行動しなければなんにもならないのだが、

当時の自分は幼く、与えられることばかりを期待していた。

 

行動力の欠如、自律心のなさ。

それが失敗の原因だと今ならわかる。

 

河合塾には模試の成績上位者に学費免除というシステムがあった。

親の負担を減らしたい一心で行動したおかげか、学費は上半期免除、下半期半額免除という結果を出せた。

 

どうにか合格できるような気がしていた。

 

しかしながら2度目のセンター試験は88%、目標の9割に届かなかった。

チューターという相談員のような人がいたのだが、その面談で志望校を変更しないかと伝えられた。

ここの方が合格できると。

その理由は自分でもわかっていた。志望校への二次試験の実力が自分には足りていなかったからだ。

 

自分は医学部に行きたいのか、はたまた志望校にいきたいのか、その狭間で悩んだ。

 

悩んだ末に出したのは、

「自分は人の健康の役に立てれば職種にこだわりはない。志望校の他の医療系の学部に進学する。」

というものだった。

 

このとき自分は再び逃げ出していた。

当時の考えはこうだ。

 

医学部に挑戦すれば2浪するかもしれない、他の学部ならおそらく合格できる上に志望校で生活できる、楽しそうだ。人の健康の役に立てるならば医師じゃなくてもいいじゃないか、研究の成果が出せれば万単位の人の役に立てるのでは!?

 

こうして自分を納得させていた。

 

目論見通り、無事に志望校の他の学部に合格はした。

それはそれは楽しい大学生活が待っていた。

 

しかしながら、ここでも逃げたという思いが、自分のこころにしこりを残し続けた。

そうして就職、その先を考えるにあたって、もういちどだけ医学部に挑戦したいと考えるようになった。

逃げた自分のツケを払う。結果はうまく行かなくてもいい、挑戦したという結果とそれに伴う自尊心がほしかった。

 

親には泣きながら土下座した。

(逃げた話はとてもじゃないができなかったが…。)

 

研究室の教授にも相談し、1年間休学させてもらった。

(退学も考えたが、先生のご厚意で籍を残しておくことにしたのだ。感謝しかありません。)

 

 

 

1年間の宅浪生活の末、無事かつての志望校、医学部に合格した。

ようやくこころのしこりが取れたような気がした。